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【KAKERUインタビュー No.77】

音楽家・秦万里子を応援しているマザールですが、万里子さん以外にも素敵なアーティストやミュージシャンを推薦いただくと時間の許す限り足を運んで生の音楽、作品に触れるようにしています。今回、国際障害者ピアノフェスティバルという素晴らしい演奏会のご案内をくださったのは、NY在住・寺尾のぞみさんからでした(KAKERU15をご覧ください)。出場されたNY在住・西川悟平さんが演奏されたピアノの素晴らしさといったら、見たことも聴いたこともないものでした。悟平さんをはじめ、このステージに立たれた皆さんは、生まれながらにして障害があったり、事故などのために体のある部分の機能を失ったりされています。そんなハンディ(一般的にいうと生活に支障があるハンディなのですが)を微塵も感じさせない、むしろ凡人では到底叶わない、天才的+αの力を感じました。生きることはしんどいけれど、ほんとに素晴らしい。そんなふうに感じさせてくれたピアノの音色を文字では伝えられず残念です。数々の試練を超えてこられ、再びピアノを弾けるようになったというその不屈の精神が、演奏される音色に凝縮されているようでした。コンサートのために来日された西川悟平さんに、困難を乗り越える力についてお聞きしました。

西川悟平【Gohei Nishikawa】

ピアニスト

15歳よりピアノを始める。大阪音楽大学短期大学部ピアノ科卒業。ピアニスト故デイビッド・ブラッドショー氏とコスモ・ブオーノ氏に認められ、ニューヨークにて演奏する機会を約束され渡米。リンカーンセンター・アリスタリーホール、カーネギーホール・ウェイルリサイタルホールにてアメリカデビューを2000年に果たす。渡米直後からジストニアと言う神経障害の病にかかり、一時は両手の機能を失ったが、奇跡的に右手が回復し、現在右手と左手2本指のみで演奏をする。2004年、師匠であるジュリアード音楽院ピアノ科教授オクサナ・ヤブロンスカヤ女史を、JHCファンデーション主催の下、出身地である大阪府堺市に招聘するピアノを、松浪まゆみ女史、森脇登美子女史、小川侑俊氏、澤比呂美女史、デイビッド・ブラッドショー氏、コズモ・ブオーノ氏、オクサナ・ヤブロンスカヤ女史に師事。現在ニューヨーク在住。

 
 
(取材前日に開催された)演奏会、とにかく素晴らしかった。悟平くんの演奏、とてもエネルギッシュで左手の指が足りないなんて全然感じなかったです。弾いている姿からオーラというよりも炎があがっているような、すごい気合いも感じました。ピアノとの出会いは15歳と遅めでしたが、その後が壮絶な練習だったんでしょうね。
 

ありがとうございます。 中学時代はブラスバンド部でチューバを演奏していて、チューバで音大へ行こうと決意。顧問の先生に相談したところ、音大は受験する専攻にかかわらず、バイエル程度のピアノ実技が入試にあると知り、速攻ピアノを始めました。入試まで3年を切っていたので、それまでにバイエルが弾けるようになるか不安で猛練習をしたのですが、4ヵ月ほどでショパンのワルツを発表会で弾き、入学試験直前にはピアノコンチェルト(オーケストラをバックに、ピアノが主役になる演奏スタイル)をコンサートで演奏するほど、ピアノに没頭していました。結果、チューバを辞めてピアノ専攻で受験しました。卒業後は、台湾やヨーロッパをバックパックで周り、日本の美しさと良さを再確認して、某百貨店にある和菓子屋さんに就職しました。

 
ということは、社会人になってから再びピアノへ向かうことに?何がきっかけになったのでしょう。
 

僕は長男で、母に「音楽では食べて行けないから、普通に就職して欲しい」と懇願され、ピアニストになんて到底なれないと思っていましたので、普通に就職しました。毎日の仕事に追われ、中々練習する時間を取るのが難しくなっていましたが、 それでも練習はあきらめずに続けていたんです。僕の場合、ピアニストになってスポットライトを浴びて有名になりたいというよりも、綺麗な曲をたくさん弾けるようになりたいという思いの方が強かった。もちろん、派手な曲も弾いて目立ちたいという願望は少なからずありましたが。。。そんなある日、友人に連れられ 『ピープルズ』という、ジャズバー兼歌声喫茶に連れて行ってもらったんですね。その時にお店のピアノをちょっと弾いてみたら、そこのオーナーさん(兼ジャズピアニスト)が、「アンタ上手やけど、もっともっと練習せなあかんわあ。思ったように弾かれへんかって悔しいやろう?ちゃんと練習したら、又ここに弾きにおいでや。人前で弾くの勉強やしな!」なんていってくれて、それから再び練習量を増やし、真剣に演奏を始めたんです。

丁度その頃、いつも来てもらっていた調律師の方に、ニューヨークからジュリアード音楽院で以前教えていたピアニストが来るんだけど、その前座で弾いてみないか?と、お声がかかりました。僕は、仕事と練習の両立で頭が一杯で、「時間がなさそうなので、無理かもしれません」といったら、 「時間が無いんじゃなくて、そこで演奏する自信が無いんでしょ?」といわれてしまって……。 実際、自信がなかったし、とても怖かった。でも、そういわれると負けず嫌いのせいか無理とはいえず、出演させて頂くことにしました。それがきっかけとなって、ニューヨークにスカウトして頂けた。デヴィッド・ブラッドショー先生とコスモ・ブオーノ先生の両氏に面倒を見ていただくことになりました。

 
25歳で渡米。5年前ジストニアという病気を発症され、異国の地でそれをどんなふうに受け止められましたか。
 

絶望、でした。いろんな病院をはじめ、催眠療法、前世退行催眠という生まれ変わる前の自分を見てもらうところにも足を運びました。この病気自体は原因不明で未だ解明されていません。どんな症状になるかというと、足に「こむらがえり」というのがありますよね。眠っている時に突然ふくらはぎのあたりがつって痛くなる…というあれが、手の指でなる。しかも痛みはないのです。

 
痛くないのに曲がってしまうんですね。ピアノが弾けなくなるのは辛かったでしょう。今は右手と左手2本指の演奏スタイルで、まったくハンディなど感じさせない音色ですが、そもそも指が動くようになったのは奇跡的な回復だったとか。どうやって克服されたのでしょう?
 

ニューヨークに行ってから、週2回のレッスンが始まり、寝る間を惜しんで練習しました。 渡米後3ヵ月でリンカーンセンター(アリスタリーホールという、東京でのサントリーホールみたいな所)、アメリカの有名な大ホールでデビューしました。 でも、舞台が大きくなればなる程、周囲の方々からの期待が大きくなればなる程、遅くからピアノを始めたというコンプレックスや未熟な演奏テクニックを隠しきれなくなる恐怖に襲われて。その翌年、カーネギーホールで演奏会をしました。この時期に、左手の異変に気づきました。

度重なる緊張の中での猛練習が続き、きっと神経も精神も筋肉も疲れ果ててしまったのだと思います。でも、その時は必死でしたから、休むとかリラックスするというのは考えられなくて、それが数年続きました。その結果、どんどん指が内側に『こむらがえり』の様に曲がって。鍵盤上では、手がジャンケンの時のグーの形になってしまいました。今まで弾けていた曲がどんどん弾けなくなり、本当に焦りました。初めは左手だけだったのが、今度は右手もおかしくなり、両手が同じように曲がってしまいました。でもこのことを誰にもいえませんでした。いえば、全てが終わると思っていたので、隠し通しました。

病院でMRIやCATスキャンやレントゲン等、色々な検査の結果「ジストニア」と診断されました。 医者に『一生ピアノを弾く事が出来ません』と宣告されて、僕は非常に怒って 「アナタに僕が一生演奏出来ないという権利は無い!現代の医学では、治療法が分かりませんといって欲しい!」といったのを覚えています。この頃に、自殺を思い立ちました。15歳から青春時代の10年以上、毎日毎日ひたすら練習に費やし、 やっと手に入れた憧れの環境や舞台、やっと出会えた周囲の方々。筋肉の発作は一向に治まらず、ノイローゼになり、恐怖が大きすぎて、泣くこともできませんでした。 今思うと、僕に死ねる根性が無かったので良かったと思います。死のうとしたら、痛くて……こんな痛いのを我慢して死ぬのなら、死ぬ気で生きてみようと。今なら笑い話なんですけれどね。

 
医師に「もう弾けません」と宣告されたのに心が折れずにいられたのは、やっぱり悟平くんの精神力ってものすごいと思います。死ぬ気で生きてみようとすると、いろいろな出会いもありますよね。
 
そんな中、現在の僕の米国でのビザスポンサー山本薫先生(JHC Foundation, Inc代表取締役)に出会い、 彼女の経営する幼稚園で演奏する機会を頂きました。それは、右手指2本、左手2本、合計4本での演奏。 動物の謝肉祭という、動物をモチーフに作曲された曲を弾くと、子どもたちは音に合わせて飛んだり跳ねたり、 歌ったりして、僕のピアノに反応してくれ、それが嬉しくて。これがきっかけで、少しずつ子どもたちの為にピアノを弾くように。すると右手の小指が少し動き出し、右手が3本動くようになりました。

ここで発想の転換があって、その後の僕の演奏を大きく変えた。10本指で弾けていたものを無理に元通りに弾こうとするのではなく、5本指を今までの指使いの片を破り、工夫して演奏すれば良いことに気づきました。今まで10年以上も練習を続けていた基礎を、根底から覆すことが、 次に進める要因となりました。

そうしているうちに、田村麻子さんという、僕の憧れのソプラノ歌手の伴奏をさせて頂くことになりました。元はピアニストを目指した彼女は、僕の手の障害に深く同情してくださり、 癒し系の優しい曲を伴奏しているうちに、右手が徐々に5本とも動くようになって、本当に驚きました。きっと、神経も精神も筋肉も一緒に癒されたんですね。丁度その頃、ヒプノセラピーという、催眠状態で自分の深層心理と向き合い、心の傷や不安を取り除いて行くこともやっていました。

その結果、2008年にはイタリアで演奏会に出演させて頂き、2009年1月からは田村さんと二人で日本でもニューヨークでも演奏会をさせて頂きました。その後、バンクーバーでのコンクールでは入賞することができました。
 
いろいろな経緯の中で、望みを捨てずに努力を重ねてこられて。その前向きさが、すべて良い方向へと転じてこられてよかったですね。日本は今ものすごく不景気で、大卒の就職率も62%とか。約半分は卒業しても企業で働くこともできない。どの職場もリストラがすごいみたいでギスギスとしている。いつの時代でもいろいろ問題は抱えていますが、悟平くんは10年もNYにおられて、どんなふうにこの時代を感じていますか?
 

アメリカも超不景気ですよ。でもね、僕は今興奮しています。だって、100年に一度の不景気と言われているこのご時勢に、ベッドと屋根があるところで、食事ができるんだから、この先100年間は、どこでも生きていけるって事ね。。。なんて思っています。世界大恐慌の、それこそ街中が浮浪者で溢れた時代に、巨万の富を得た人もいるし、バブル大絶好調の時に、資産を失った人もいると思います。最終的には、個人の考え方次第で、自分のおかれている環境は最高にも劣悪にもなると思います。考えを前向きに、暗中模索でも、とにかく今出来る事を何でも良いからとりあえずやってみる内に、今まで見えなかった事も、見えてくる場合が多いと思います。何もしないで、やれ不景気だ、貧乏だ、時代が悪い、などといってる人は、いつまでも時代と環境に流されて、結局は「こんなはずじゃなかった!」「これは、僕の(私の)やりたかった事じゃない!」なんて言いかねないと思います。

 
生きていくには仕事をしないといけませんが、働き口のない人が溢れています。毎日当たり前のように時間通りに走っていた日本の電車が、今まともに走っていない。人身事故が絶えずあるから。特に東急沿線や少し郊外の沿線は、新興住宅街でローンを組んで家を建てた人が、ローンを払い切れずに飛び込んでしまう。心が折れちゃうんですね。
 

ローン地獄で死ぬのなら、死ぬ気で働いてローンを返していけば良いのに。。。と思います。僕も、何度か死を考えたことがあるくらい行き詰ったので、死にたい人の気持ちは分かるけど、死ねる勇気があるなら、死ぬ気で頑張って欲しい!といいたい。うつ病の方は別ですが。仕事がないとよく聞きますが、それは仕事を選り好みしているか、もしくはリサーチ不足。僕もアメリカに来た頃、仕事がなくて探しているうちに、洗濯屋さん、八百屋の面接(2回落ちました)、掃除員、家政婦ならぬ家政夫、老人介護、マッサージを独学してマッサージサロンやエステティックサロンで働いたり、バーテンダー、家庭教師、ウェイターなど等、色々やりましたよ。ちなみに、この時は既にカーネギーホールでも何度が弾いた後の話です。指が悪くなって、一気に音楽界から僕は姿を消したので。カーネギーやリンカーンセンターで弾いた経歴と履歴を八百屋に持っていったときの、八百屋さんの顔、スゴイ顔してました(笑)。

 
異国のNYで生きていくだけでも大変でしょうけれど、病気を抱えながら、絶対生きてやる!復活するぞ!という気合いを感じます。カーネギーホールで弾いていたピアニストが八百屋さんで働くなんて、どこを探しても悟平くんしかいなかったと思うし。でも、ピカピカのピアノをいつでも弾ける恵まれた環境にいるより、町で生きている人がどんな生活をして、どんな気持ちをもってて、どんな音の中で生きているか知ることのできる、いい機会だったかもしれませんね。
 

今は、ピアノだけでやっと生活をしています(ピアノ教育と演奏)。とにかく、目標をしっかり持っていれば、回り道をしても、きっと目標に到達すると信じています。そして、回り道が多ければ多い程、しんどければしんどいほど、ハードルが高ければ高いほど、目標に達成した時に、より多くの引き出しを持ってその目標だったものをキープ出来ると思います。それに、人の痛みも分かる人間になれると思います。

 
今回のコンクールでは、短い時間の中でたくさんの演奏家が入れ替わりで登場されて、同じピアノなのにお一人おひとりが違う音を奏でられるのでビックリしました。それぞれの方がピアノで語っているような、言葉はないんだけどすごく想いが込められていると感じました。悟平くんは、どんな想いを込めて演奏されましたか?
 

慣れない環境での演奏会でしたので、本番前はとても緊張しました。でも、僕の高校生の時からの憧れのピアニスト、吉田洋さん(芸名:ピアニスターHIROSHIさん)が応援に駆けつけてくださり、叱咤激励いただいて、そのお陰でステージでは落ち着いて弾くことができました。 以前、自分で自分の首を締めてしまったのが、技術的なことにとらわれてしまい、本来の音楽の基礎となる ”歌”又は”歌心”を忘れないように演奏しました。技術的なことは、技術のある人に任せて、僕は歌うような演奏をするように 日々心がけています。

 
12歳、小学6年生の女の子も出場されていましたね。息子と同じ歳なので食い入るように聴いてしまいました。先天性左手間接部欠損ということで片手が不自由でありながら素晴らしかった。私、時間の都合で残念ながら悟平くんの後に登場された入賞者の方の演奏を、お聴きできなかったのですが、一言でいうと今回出場された皆さんの演奏は、どんな音楽といえますか?
 

演奏に心がこもっています。プロの演奏家の世界は厳しく、ミスタッチや音の粒がそろっていない演奏などは許されません。それ故、多くのピアニストは技巧に走りがちではないかと思うことが多いです。今回の演奏会で演奏された方々の多くは、体にハンディがある故に、一つの曲を仕上げるのにも 大変な時間と労力を使われてこられた。ひとつ一つの音に魂がこもっていたように感じました。 自分の今までの悩みなど、取るに足りない小さなことのように思わずにはいられませんでした。あそこで演奏させて頂いて、本当に良かったです。

 
NY在住でいらっしゃいますが、今、特に日本の子どもたちへ伝えたいことは何でしょうか。
 

とにかく、夢を大きく持っていただきたい。 2001年9月11日世界貿易センタービルが崩壊した時、僕はまさにビルの真ん前にいました。 いつ何が起こるかわからないんだ。。。と思いました。 自分の人生に悔いの無いように、大きな夢をもって。そして、小さなゴールをたくさん作って、ひとつ一つをこなして行くうちに、大きすぎると思った夢にも少し近づいて行く日が来ると信じています。そして、他の人の痛みが分かる人になって欲しい。自分の目先の利益だけを考えずに、人の幸せも願える人になって欲しい。僕もそうなりたいと思っています。

最後になりましたが、この特集を組んでらっしゃる あべみちこさん、素晴らしいと方だと思いました。 受験生の息子さんもいらっしゃり、普通は自分の家庭のことだけでも大変なはずなのに、世の中の沢山の方々に夢や希望を与える仕事をせっせとこなしてらっしゃる姿を見て、とても感銘を受けました。僕の為にもお時間を取って下さって、ありがとうございました。

 
こちらこそ、本当にありがとうございました。
悟平くんは大阪出身なので、ものすごくよくしゃべってくださり、ところどころで笑いのツカミあり、とっても楽しい取材でした。今回の演奏会でそれぞれの演奏者が奏でるピアノの音色、それぞれ違って素晴らしかったです。生きていくことは、伝えること。悟平くんの素晴らしい演奏をまた聴きに行きたいです。そして、私もぼんやりせずに伝えていかねば!と思いを新たにしました。

本年もKAKERUインタビューをご愛読いただきまして、本当にありがとうございました。このコンテンツで出会った皆様に深く感謝しております!来年も皆様にとって素晴らしい年でありますように。2010年も、ぜひご一緒ください。



国際障害者ピアノフェスティバルは、世界中からやってきた素晴らしい挑戦者による音楽の祭典です。 悟平くんはクリスタル賞を受賞!
カーネギーのウェイルリサイタルホールでのリハーサル風景。
2007年の年越しをタイムズスクエアですごした時の写真。

NYのストリートでのワンショット。

2008年のクリスマスコンサートで、米国人歌手の伴奏をした後の乾杯風景。
演奏会場の楽屋で、頂いたお花と。
リンカーンセンターのエイブリーフィッシャーホールの舞台上で、オペラ歌手の田村麻子さんと。
イタリアのホテルの片隅でワンショット。
イタリアでの演奏会の楽屋で世界各国から来た演奏家達と。
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