NPOみんつな

"みんつな"とは皆(みん)なが繋(つな)がって津波(つな・み)をひっくり返そう そういう想いから名付けられたネーミング。1人1人が自分にできることで関わり それがひとつの流れになるような組織を目指し、他団体と積極的に連携している。原動力は「被災地の力になりたい」という思いで活動中。







株式会社スタディオアフタモード

アート、教育、ジャーナリズム。それぞれを点を結び、ひとつの線となるような枠組みを超えた表現の場をプロデュースする会社。代表のヤハギさん自身もクリエーティブな仕事を手がけているが、フォトグラファーやジャーナリストも所属し活動する。






AFTERMOD E-PRESS

矢萩邦彦(ヤハギクニヒコ)責任編集の週刊電子媒体。記事はアフタモードメンバーによる書き下ろし。メールマガジンも登録受付中。





イシス編集学校

日本で最初にインターネット上に開校した編集の学校。松岡正剛が校長を務め、矢萩邦彦は師範代(エディトリアルコーチ)として関わっている。





鏡明塾

世代を超えた学問の場「現代版江戸の私塾」。“知の巨人”松岡正剛が認めた日本で最初の結合術師「アルスコンビネーター」ヤハギクニヒコが送る、縦横無尽・唯一無二、とっておきの“世界科”講義。テキストは毎回その日のために書き下ろし、学校の教科書を遙かに超えた壮大な知の冒険活劇にご招待します。 5種類のコースから何を選択しても可。



3.11震災翌日にスタートしたNPO「みんつな」とは

 
3.11震災直後の陸前高田市
街ごと襲った津波による被害は甚大。瓦礫が何キロにも渡り、どこまでも続く。いまも避難民は1万人近く。安否のわからない行方不明者も多数いる。

震災のあった3月11日。直後からの停電にもかかわらず、被災地情報を収集し、頭の中では被災地を支援するための構成が始まっていたという。ものすごいフットワークのよさだ。 「常に流動的。日常の中に支援を持ち込むというのが僕らの目的。学生なら学業との両立。社会人なら仕事との両立をしてボランティア活動をいかにして続けられるか。それでないと瞬間的な風速で終わってしまう。僕らは3年という区切りを一つの目途としています。2年目くらいまでに現地の人を雇用して事務局をつくる。1年かけて仕事の引き継ぎをして、スピンアウトする。そういう流れで考えています」

活動の拠点は陸前高田市。この土地である理由は後述するとして、この陸前高田で被災した若者、年配の方々をNPO活動家として雇い、給与を支払えるようにする構想をもつ。起業家ならぬ活動家だ。

「僕らは今、寄付金型NPO。つまり収入は寄付金です。緊急支援型のNPOはこうしたスタイルが多いのですが、これを長期的に考えて事業型NPO法人に移行せねばならない。そういう将来を見据えているので、最初から組織をガッチリ固めずにスタートしました」 役割分担はしても常に流動的。それは、現地のニーズが常に流動的であることから、「決め打ちせずに常にスタッフ誰もが対応できるように」している。実際、そういう柔軟な役割分担のNPOはあまり存在しない。だからこそ、いいモデルになろう、という気概がある。

被災地へボランティアに行くには交通費も生活費も掛かる。組織を維持するには支援金を使うのを後ろ向きに捉える学生ボランティアは少なくない。「情報収集にはお金が掛かる。けれど、そういう現実を納得できない人はかなり多い」。何か明確な物を買う目的で費用が発生するのではなく、現地へ飛んで欲しい物を聞くという「情報収集」が最初の仕事。

阪神淡路大震災で被災者を撮るカメラの暴力を知っていたので、「二度と同じ轍を踏むまい」と、ボランティアスタッフにカメラ持参を禁止した。ところが、先行し現地に入ったジャーナリストの佐藤慧(矢萩さん代表の株式会社スタディオアフタモード所属)が『ここは違う。今は現地の情報収集をどんどんして、記録として写真も残しておくべき』と伝えてきた。実際、現地へ飛ぶと壁に「写真を撮影してくれる人、求む」など要望が貼られていた。津波で何もかも流されてしまった被災地を知らせる手段が求められた。「今は本部が東京にありますが、今後は被災地に本部を移行して現地の方の雇用確保に努めたい」と願う。

現地の関係づくりのため流動的に対応

 
陸前高田市を拠点に活動を行う
矢萩さん代表の株式会社スタディオアフタモード所属ジャーナリスト佐藤慧氏が陸前高田市の出身。彼は今回の震災による津波で母を亡くした。「ボランティアの方も東北の端までなかなか来ない。常に人手不足です」

今回被災している東北全域は、ボランティアの人数が全体的に不足気味で、なかでも「みんつな」が活動する岩手県陸前高田市は遠方であり、被災が広域なため常に人が不足。一番大変なのは現地での人間関係構築。 「システムができてしまうと、それに合わせて活動しようとする。先週の体制と違うじゃないか、と言われることも承知で関係を築かなければならない」

「ひとつになろう日本」「がんばろう東北」というスローガンを掲げて震災直後からCMがたくさん打たれた。しかし被災地では困窮した生活が長期化しており、冷静になってみるとこのお祭り騒ぎ的なフレーズに違和感を覚える人も多くなってきた。矢萩さんは「24時間テレビ的な抽象化がよくない」と指摘する。

「たとえば今後、東北はクーデターが起きて独立するかもしれない。これまで中央集権国家で、東北は無理やりそのシステムに詰め込まれていた。関東と切り離して、東北は自給自足で暮らしていける自負がある。漁業に携わっていた漁師さんは、この先サラリーマンになるつもりはなく、もう一度船に乗って魚を取る仕事に戻りたいと願っている。壊滅的な被害を被った地域に住んでいる人は、あえてその土地に住んでいる人が多いのです。その土地にアイデンティティーを持っている。彼らの住んでいる意味や意識を外側の人間が変えることは難しい」

被災者の方々に、ボランティアスタッフを喜んで受け入れてもらえるとは限らない。むしろ「外から何も知らないで来たくせに、わかったようなことを言うな」と思われることも。矢萩さんはそれを「東北人の本音」と捉える。「全体をみた時に、少しでもプラスに運ぶように何を言われてもあきらめないで続けること。それをしていくための場は必要です」

外側から変える、まるくつなげる組織

写真は、NPOみんつなHPより
被災地で求められていることは日々刻々変化する。その変化に対応できる柔軟性がボランティアに求められている。

今、いろいろなNPOや個人がそれぞれのやり方で活動をしている。例えばツイッターで毎日活動報告をするNGOもある。
「僕らは、そうした報告を毎日はしません。なぜならそこにエネルギーを注ぐことで人件費も掛かってしまうから。週ごとにメールマガジンを配信し、今週の活動、主要メンバーの動向、支援金の使用途など伝えています」

メルマガを執筆しているのは、ほとんどが学生ボランティアメンバーで、矢萩さんは編集監査の立場だ。学生が第一線でそうした仕事ができる環境づくりが大事だという。現在メルマガ制作を担っているのは、幼少時に阪神・淡路大震災を体験した大学生。関西在住のため東北と距離はあるものの、活動に加わっている。

「みんつな」の組織は、いわゆる企業にありがちなトップダウンはない。組織をイメージにすると丸い輪になる。たとえばリーダーの位置付けも、共同代表として5名の名前が連なる。役割も一人がひとつの役割を担うわけでなく、一人が2〜3役を関われるように考えた。こうしたアイデアは今に始まったことではなく、「もともとこういう思考で物事を捉えてきたから」。そしてこう続ける。「円環的、有機的な組織づくりが、ロハス、サステナビリティーにつながる。上から下へという指令系統があるのなら、下から上への指示系統もなければ。横につなげて互いを循環させなければ、永続的につながらない」

ぜひとも日本の現政権に取り入れてほしい仕組みだが、政治を変えるために政治の仕事をしようとは思わないという。その理由は「僕の中では、あくまでも外側から変えられる力をどれだけ育めるかというチャレンジ。草の根から離れたらマズイと思う。教育の仕事に携わっていますが、現場を知りつつ外側からアプローチし続ける。僕は前時代的なアナキストではなく、ネオ・アナキスト」。つまり権力は嫌いだが、全否定はしない。多様性を受け入れつつ、横のつながりを増やしていけばこの国は暮らしやすくなるはずだ。

アルスコンビネーターを増やしていく

「鏡明塾」講義のひとこま
中高対象の講座から、一般対象まで参加者は幅広い。科目の括りは国語、社会だが、毎回テーマはユニーク。知識を詰め込むタイプの講義でなく、興味に火をつける内容。親子で参加する人も。

矢萩さんの活動を紐解くと、詩人、ミュージシャン、物書き、写真家、デザイナー、そして教育者、活動家であり、経営者でもある。肩書きがいくつあっても足りないくらいだ。 現実的にどの仕事も精力的に取り組むが、これは『始めたことをやめる、という選択肢はない』と骨太な意思による。そして、もう一方で自身の研究を多くに伝える術を習得するため、松岡正剛氏の元を訪ねた。なぜ松岡氏にたどり着いたかといえば……
「年間400冊読むという新聞記者が『本の虫』と言われていたので、それなら僕は倍以上、年間1000冊読もうと決めた。毎日数冊読むうちに、これはおもしろい!という本、やけに目につく名前が松岡正剛氏でした。僕と思想やスタイルを同じくする先人だと思い… 」

彼に認めてもらうことで、道が拓けるのではと2007年に門下入りを希望。その松岡正剛氏は、編集学校という機関で後続を育成している。そこで、その学校へ入って成績はもちろんのこと、目立った活動をすれば話ができるのでは…と目論んだ。しかし最終目標は弟子入りではなく、彼と一緒に仕事ができることを目指した。

編集学校へ入学して1年半、コースを重複して履修するなど裏技を使い、システム上可能な最短最速で卒業し師範代に。「気合いを見せるには、何をやっているか。どうしてそうするのか。僕の場合は、むちゃくちゃに詰め込んで、こいつは本気だというのを知ってほしかった」。そして念願叶い、その年の『典離』(松岡正剛の認める水準に達したものだけに贈られる最高栄誉賞)を受賞した卒業パーティーの席で松岡氏に直接お願いをした。「僕個人の名前で仕事ができるようになるまで、何か強力な肩書きがないと弱いと思ったので、松岡先生に何か考えて名付けてもらえないかと」。そうして授与された肩書き「アルスコンビネーター」は、矢萩さんが第一号であり、まったく新しかった。

命名されて丸1年後の、2009年10月27日に株式会社スタディオアフタモード設立。今、若いジャーナリストやフォトグラファーが複数所属し、講演やメディア出演など多数こなして社会へ存在感を示している。松岡氏が矢萩さんに託した願いは「メディアを育てる人になってほしい。そしてアルスコンビネーターを増やすこと」で、着々と実現している。 「パレットにたくさんの絵の具を持つと、今は使わなくても後で引っ張って使う色があるかもしれない。意識して色を組み合わせられるようになった時、アルスコンビネーターの活動につながってくる」。たくさんの絵の具とは、知識であり、興味であり、人との出会い…に置き換えられるかもしれない。

若いけれど深い洞察力。冷静なのに強力な馬力。困難な時代をいい方向へ導く人というより、人を巻き込んで新たな道を拓いてゆける人。矢萩さんに教えられた塾の教え子には、何年かするともう一度わざわざ会いにやって来る生徒が多い。「思い出してくれたときに、いつでも会いに来て貰える場があるように」、と私塾「鏡明塾」を開いている。「将来一緒に仕事するぞ」を理想の教育方針に掲げる。実際、矢萩さんの会社には小学生の頃の教え子や、編集学校での教え子が在籍する。多くの賛辞よりこの事実が、人としての魅力を物語っている。

公開日:2011年6月1日

ヤハギさんは息子が通っていた受験塾で社会科を教えてくださっていた先生です。反抗期の今でも、何かといえばヤハギ先生の受け売りを口にするので、いまだに大好きで影響を受けています。12歳だった教え子が何年経っても、忘れていないのは教師の仕事をされている人として、すごく幸せなことなんじゃないかしら。先日は鏡明塾にも参加させていただいて、とっても楽しかった!かつてコピーライター塾に通っていた頃の気分をあじわえました。ヤハギさん、すごく年上な感じがしますが、何十年分もの知識を先取りしているからでしょうか。頭も体もちょっと弱っている私には、とっても眩しい魅力ですが、がんばり過ぎが心配。たまには何にも考えないで笑える時間も作ってくださいね。そんな後方支援なら、いつでも動きます!(マザールあべみちこ)

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